
【日産&ホンダ統合の行方】鍵を握る「三菱自動車」…三菱重工や三菱商事が連携して存続を図ってきたその歴史 2016年には日産の支援でグループ入り(マネーポストWEB)|dメニューニュース
昨年末から続く日産とホンダの経営統合協議。ここにきて注目されるのが、日産が筆頭株主となっている三菱自動車の動向だ。統合に加わり「3社連合」となる可能性も指摘されているが、統合会社の中に入ると、経営の自由度が奪われ、三菱グループとの連携にも支障が出るため、統合には入らないとの見方も根強い。そんな三菱自動車のこれまでの歩みについて、自動車業界に精通するジャーナリスト・井上久男氏がレポートする。【全3回の第2回。全文を読む】 “親”が変わった 歴史を振り返ると、三菱重工や三菱商事が連携しながら「弱小自動車」の存続を図ってきたことが分かる。 実は三菱が日本で初めて乗用車を量産したことはあまり知られていない。1917年、重工の前身である三菱造船が「三菱A型乗用車」の生産を開始。トヨタが同社初の乗用車「AA型」を発売する19年前のことだ。 しかし、当時、国産車は売れず、三菱造船は自動車生産を辞めて航空機に経営資源をシフトし、1928年の三菱航空機設立につながった。その航空機と造船が合併して1934年、三菱重工が誕生した。現在の三菱自動車は1970年、重工の自動車部門が独立して米クライスラーとの合弁で設立。歴代社長の大半は重工出身者で、重工が“親”だった。 転機が訪れたのは2000年、三菱自動車が独ダイムラー・クライスラーからの資本を受け入れた頃からだ。当時、交渉を巡って、「重工のドン」と言われた相川賢太郎相談役と商事の槇原稔会長が対立したと言われている。相川氏が外資との提携に反対で、槇原氏は推進した。 その後、三菱自動車は2回にわたってリコール隠しが発覚して経営破たん寸前に陥り、「御三家」が中心となって経営支援した。2005年に商事出身の益子修氏が社長に就いたことで、重工よりも商事の影響力が強まり始めた。 この益子氏が自動車の経営を再建させた。だが、2016年に再び品質不正の「燃費データ問題」が起こり、今度は日産の支援を仰いだ。当時、会長だった益子氏と日産副会長で日本人トップだった西川廣人氏が話し合い、日産から34%の資本を受け入れ、日産グループ入りが決まった。 2017年に西川氏が日産社長に就くと、益子氏との関係がさらに強まった。 * * * 現在、マネーポストWEBでは、関連記事《【全文公開】日産&ホンダ統合を左右する「三菱自動車株」問題 日産の持つ27%の三菱株の行方は…ホンダが引き受ければ新たな「3社連合」の形へ》にて、井上久男氏によるレポートの全文を公開している。 【プロフィール】 井上久男(いのうえ・ひさお)/1964年生まれ。ジャーナリスト。大手電機メーカー勤務を経て、朝日新聞社に入社。経済部記者として自動車や電機産業を担当。2004年に独立、フリージャーナリストに。主な著書に『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』などがある。 ※週刊ポスト2025年2月14・21日号
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「父のような存在でした」仲田幸司さんが涙で思い返す吉田義男監督からの手紙(スポニチアネックス)|dメニューニュース
完封でプロ初勝利をあげた仲田幸司に抱きつく阪神・吉田義男監督(1985年5月12日、神宮球場) 吉田義男さんの訃報を受け、元阪神の仲田幸司さん(60)は思い出深い手紙について涙ながらに語った。 興南高(沖縄)からドラフト3位で入団して2年目、1985(昭和60)年5月5日の中日戦(甲子園)でプロ初登板を果たした。こどもの日の先発起用について当時、吉田監督から「おまえも高校野球で頑張って来たんやから子どもたちに夢を与えるんだぞ」と送り出された。5回3失点と踏ん張ったが敗戦投手となった。 1週間後の12日、ヤクルト戦(神宮)で再び先発起用された。今度は散発3安打に抑え、完封でプロ初勝利をあげた。 その翌朝、宿泊先のホテルで吉田監督から部屋に電話があり、呼び出された。 「マイク、昨日は何の日か知ってるやろ」と言われ「はい、母の日です」と返した。 「そうや、ようやった。今の気持ちを忘れんとしっかり頑張れ。お母さん孝行の足しにしなさい」。 手紙入りの封筒と賞金10万円をいただいた。仲田さんはそっくりそのまま沖縄の母・ナラエさんに送った。母もまた、そのままタンスのひきだしにしまい、大切に保管していた。仲田さんは帰省する度にその手紙を読み返した。 手紙には「プロ入り初完封、初勝利。実に立派な価値ある、素晴らしいものだった」とあり、次のような戒めも書かれていた。「タイガースは人気球団だから、これから誘いや誘惑もあるだろうけど、軽はずみについて行くんじゃなくて自分で判断して断る勇気も持ちなさい。仮に3回誘われたら1回は断れる人間になるように自分の身体を守ることも考えるように」。 仲田さんは米国ネバダ州で、米空軍将校の父と大阪・堺市出身の母との間に生まれた。米国名はマイケル・フィリップ・ピーターソン(通称マイク)という。1967年、父の配置転換に伴い沖縄県へ移住した。 「沖縄から出て来て、右も左も分からず不安に過ごしていました。吉田監督は父のような存在でした」と感謝を込めて話した。 (内田 雅也)
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ホンダ・日産「統合破談」実現したらどうなるのか? 次なるパートナーは? 生き残りをかけた提携合戦は起こるのか(Merkmal) – Yahoo!ニュース
2024年12月に発表されたホンダと日産の統合協議は、当初、持ち株会社方式を中心に進められる穏やかなものだった。しかし、経営再建が進まない日産の姿勢に焦りを感じたホンダは、方針を転換し、日産への直接的な経営支配を求めるようになった。ホンダにとって、日産を傘下に置くことは、経営判断のスピードを高めるための合理的な手段だった。しかし、日産側にとってこれは受け入れがたい提案だった。 日産はこれまでも経営権を巡る葛藤を経験しており、フランスのルノーとの関係においても資本構造のバランスに悩まされてきた。このタイミングで、また別の企業の支配下に入るのかという反発が生じるのは当然であった。 統合破談の可能性が現実味を帯びるなか、日産側には新たな課題が立ちはだかる。自力再建の道を選ぶのか、それとも他の提携先を探すのか。交渉が決裂すれば、ホンダと日産はそれぞれ異なる経営戦略を選択せざるを得なくなる。 ホンダにとっての選択肢としては、単独での戦略を維持するか、新たな提携先を模索するかがカギとなる。ホンダはこれまで独立した経営スタイルを貫いてきたが、電動化やソフトウェア化が加速するなかで、単独での競争力維持は難しくなってきている。日産との統合が白紙に戻れば、他のパートナーとの連携を検討する可能性が高い。特に、海外の自動車メーカーやテクノロジー企業との提携が現実味を帯びる。 Merkmal ******* **************************************************************************** ******* ****************************************************************************
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谷原章介、吉田義男さんを追悼も「僕自身は阪神ファンではなく…」他球団ファンだと告白 – おくやみ : 日刊スポーツ
谷原章介(2019年6月撮影) 俳優谷原章介(52)が5日、フジテレビ系「めざまし8(エイト)」(月~金曜午前8時)にMCとして生出演。91歳で亡くなったプロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんを追悼した。 番組冒頭、谷原は「今朝のスポーツ新聞でも大きく報じられていますけど、阪神の吉田義男さんがお亡くなりになりました。とてもとても驚いた。僕自身も残念でした」と切り出した。 そして「現役時代は守備が素晴らしい方で、天覧試合にもお出になられた。僕自身もやりとりしたことがありまして」と告白。「どうしても吉田義男さんのサインをいただきたく、人づてにお願いをしたら、快く書いてくださって。お礼の品を送ったんですね。わざわざ手書きのはがきをくださって。そのことに対してもお礼をくださって」と語った上で「僕自身は阪神ファンではなくて、カープファンなんですけども、阪神を初日本一に導いて方でもあるじゃないですか」と言い、出演者にコメントを求めた。 吉田さんは3日午前5時16分に兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。12月初旬に体調を崩し、西宮市内の病院に緊急入院していた。いったんは回復したかにみえたが、昨年末に再び病状が不安定になった。
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「あまりの金額に担当者が」…宝塚市に「約254億円」寄付、公式X「中の人」も震撼(J-CASTニュース) – Yahoo!ニュース
宝塚市では多額の寄付に驚きが広がっている(写真は市役所庁舎) 兵庫県宝塚市の公式Xが2025年2月3日、Xで同市に寄せられた寄付について報告し、注目を集めている。 【画像】宝塚市役所Xが異例の報告「あまりの金額に担当者が緊張」 ■「あまりの金額に担当者が緊張し過ぎています」 宝塚市は3日、読売テレビによる記事を引用し「このたび市内にお住まいの岡本様ご夫妻より、約254億円の寄附を頂戴いたしました」と報告した。 記事では、寄付について「新たな市立病院の建設資金や、医療機器の購入資金として寄付の申し出があったということです」と伝えている。 寄付を申し出たのは宝塚市在住の岡本光一さん・岡本明美さんで、2人は阪神・淡路大震災のときに初めてボランティアを経験して以来、財団を設立し福祉コミュニティの整備に関わっていたという。 宝塚市は「岡本様からいただいたご寄附につきましては、新たな市立病院の建設資金および医療機器の購入資金に充て、市民の皆様の生活に還元してまいります」とつづった。 多額の寄付に、「個人でこの額、凄すぎ! 脱帽です。自分のために使うのではなく、こうやって寄付できるって、簡単にできることではないよね」「それだけの資産を持っている事も凄いですし、地域に貢献されるのもほんとに素晴らしいです」と驚く声が相次いだ。 宝塚市は、続く投稿で「再三の投稿修正で申し訳ありません あまりの金額に担当者が緊張し過ぎています」と謝罪している。 約254億円という多額の寄付に焦ってしまったという宝塚市の告白には、「宝塚市公式さんが慌てているから何事かと思ったら、すごい額!」「担当者かわいい、これは聞いたら気が動転しちゃう」など、ほっこりしたとの声が寄せられている。 J-CASTニュース ******* **************************************************************************** ******* ****************************************************************************
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「どうしてもサインが欲しくて…快く書いてくださった」…「阪神」吉田義男さんとの交流秘話「めざまし8」谷原章介が感謝をささげる|au Webポータル
フジテレビ系「めざまし8」(月曜~金曜・午前8時)は5日、阪神一筋で17年プレーし、華麗な守備で「今牛若丸」と呼ばれた吉田義男さんが3日午前5時16分、脳梗塞のため死去したことを報じた。91歳だった。 阪神では1年目から遊撃のポジションを不動のものとし、2年目に盗塁王を獲得。監督としても計8年指揮を執り、85年には21年ぶりのリーグ優勝と球団創設初の日本一を果たした。背番号23は永久欠番。92年に野球殿堂入りした。 MCで俳優の谷原章介は「僕自身、ちょっとやりとりをしたことがありまして」と吉田さんとの交流秘話を切り出し「どうしても吉田義男さんのサインが欲しくて人づてにお願いしたら快く書いてくださってお礼の品を贈ったんですね。わざわざ手書きのはがきをくださって。そのことに対してもお礼をくださって」と感動したことを振り返った。 そして「僕自身、広島ファンですけれど、阪神のレジェンドというよりは球界のレジェンドとして本当に心からお悔やみ申し上げたいと思います」としのび「たくさんの素晴らしい試合、そして監督見させてくださってありがとうございました」と吉田頭を下げ感謝の思いを伝えていた。
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ホンダ株と日産自株が急伸、子会社化案や協議打ち切りの観測報道で思惑交錯 | ロイター
[東京 5日 ロイター] – 5日午前の東京株式市場で、ホンダ(7267.T) , opens new tabと日産自動車(7201.T) , opens new tabは急伸している。両社の経営統合協議を巡っては、ホンダが日産に子会社化案を打診しているとの報道や、協議打ち切りの可能性を伝える観測報道があり、思惑が交錯している。 ホンダ株は一時4%超高の1445円に上昇、日産株は1%超安に下落した後に切り返し、一時4%超高の426.7円に上昇した。 ホンダ株は、日産自を子会社化する方向でも、協議打ち切りでも、初期反応はプラスになっておかしくないと、東海東京インテリジェンス・ラボの杉浦誠司シニアアナリストは指摘する。ただ、協議打ち切りの場合、競争環境が厳しくなる中で次の打ち手が不透明なことから「上値追いは限られるだろう」との見方を示す。 日産は、協議打ち切りとなれば経営再建の先行き不透明感から売りが先行し得る一方、ホンダによる子会社化の方向なら「株式公開買い付け(TOB)への思惑から買いが強まり得る」(杉浦氏)とみられている。 私たちの行動規範:トムソン・ロイター「信頼の原則」 , opens new tab
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阪神元監督・吉田義男さん死去 1985年日本一虎ナインが惜別 岡田顧問「私にとって恩人」
阪神に優勝マジックが点灯し、試合で活躍した岡田彰布と握手を交わす監督時代の吉田義男さん。この年、チームを初の日本一に導いた=1985年9月11日、横浜市 元阪神の名遊撃手で、監督として1985年に日本一に導いた吉田義男さんの訃報に4日、85年のメンバーたちが哀悼の意を示した。昨季まで阪神監督を務めた岡田彰布球団オーナー付顧問(67)は「私にとっての恩人」とコメントし、阪神の掛布雅之OB会長(69)は「『うちには日本一の4番バッターがいる』と言ってもらえたのは最高の名誉」と、感謝とともに振り返った。真弓明信元監督(71)は内野から外野へコンバートされた経緯を一番の思い出に挙げた。 虎の歴史に刻まれ、いまもなお燦然(さんぜん)と輝き続ける1985年の記憶。その指揮官の下で戦った岡田氏は突然の訃報に接し、悼んだ。 「吉田さんとは野球はもちろん、プライベートを含めて長いお付き合いをさせていただきました。私にとっての恩人です。吉田さんとの一番の思い出は、やはり1985年の日本一です」 吉田さんにとって同年は77年以来8年ぶり、2期目の監督就任だった。4月17日の巨人戦(甲子園)で永遠に語られる「伝説のバックスクリーン3連発」が生まれるなど、バース、掛布、岡田のクリーンアップをはじめとする強力打線を誇った。シーズン219本塁打はいまも破られぬ球団記録だ。2位広島に7ゲーム差をつけて21年ぶり7度目のリーグ制覇を達成。勢いそのままに日本シリーズでは西武を倒し、悲願を成し遂げた。 吉田さんとともに2人しかいない阪神の日本一監督である岡田氏は「『退院したら食事に行きましょう』と話していたのですが…。寂しい気持ちでいっぱいです」と吐露。当時1番打者だった真弓氏は内野から外野へコンバートされた経緯を一番の思い出に挙げ「優勝の話になると『真弓がコンバートをOKしてくれたから』とよく話してくれました」と振り返り、「(2009年に)監督になったときには『自分の色を出して思い切ってやれ』とよく言われました。本当に残念。タイガースの一番の貢献者です」としのんだ。
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【大雪情報】福岡30cm 熊本25cm あす昼前にかけて大雪おそれ、7日は再び大雪か【福岡・佐賀・長崎・大分・熊本・宮崎・鹿児島】雪シミュレーション5日(水)~9日(日) | 鹿児島のニュース|MBC NEWS|南日本放送 (1ページ)
九州北部地方では6日(木)昼前にかけて平地・山地ともに大雪となるおそれがあります。 2月5日(水)正午 から9日(日)にかけての雪のシミュレーションを画像で掲載しました。7日(金)以降も雪が続く見込みです。 九州北部地方では、6日(木)にかけて上空約1500メートルに氷点下12度以下のこの冬一番の強い寒気が流れ込み、次第に強い冬型の気圧配置となる見込みです。九州北部地方では、6日(木)昼前にかけて平地、山地ともに大雪となるおそれがあります。また、気温が平年よりかなり低くなる所があるでしょう。 [雪の予想] ▼5日(水)6時から6日(木)6時までに予想される24時間降雪量 山口県山地 50センチ 平地 20センチ 福岡県山地 20センチ 平地 10センチ 佐賀県山地 20センチ 平地 10センチ 長崎県山地 20センチ 平地 10センチ 大分県山地 20センチ 平地 10センチ 熊本県山地 20センチ 平地 10センチ ▼その後、6日(木)6時から7日(金)6時までに予想される24時間降雪量 山口県山地 20センチ 平地 10センチ 福岡県山地 10センチ 平地 3センチ 佐賀県山地 10センチ 平地 3センチ 長崎県山地 3センチ 平地 1センチ 大分県山地 5センチ 平地 3センチ…
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【阪神】吉田義男氏さん逝去 「タバコ1本、1本に記名」逸話取材で…記者に返した驚きのアンサー | 東スポWEB
阪神の監督として1985年に球団を初の日本一に導いた吉田義男氏が3日に脳梗塞のため、死去した。4日に阪神球団が発表した。91歳だった。53年に阪神へ入団し、軽快なプレーぶりから「今牛若丸」の異名を持つ名遊撃手として活躍。引退後は阪神監督を3度歴任し、89年から95年までは野球仏代表監督を務めて「ムッシュ」と呼ばれ、国際的な競技普及にも貢献した。92年に殿堂入りも果たした「よっさん」をスポーツライター・楊枝秀基氏が追悼した。 球団初の日本一に輝き、胴上げされる阪神・吉田監督(1985年) 子供の頃からその勇姿をブラウン管を通して拝見していた。1985年の阪神日本一の当時、僕はまだ小学6年生。そう遠くはない未来にグラウンドで直接、お話しできることになるとは想像もしていなかった。 吉田さんに初めてごあいさつをさせてもらったのは98年の東京ドーム。某新聞社で長嶋巨人を担当していた僕は、対戦相手の指揮官に恐る恐る名刺を手渡した。 「巨人担当かいな。まあ、よろしく。お手柔らかに」 その後、2005年に虎番記者となり、甲子園でたびたび野球評論家の吉田さんにお目にかかるようになった。僕の派手ないでたちもあり、認知してもらえるようになった。 そんなある日の出来事だ。昔、昔の大ベテラン記者たちから伝わる裏話で「よっさんはタバコ1本、1本に名前を書いていたほどケチだ」というエピソードを伝え聞いた。当時の僕はまだ30代前半のイケイケ。こんな面白いエピソード、本人に裏付け取材しないと意味がないと、単独取材を試みた。 甲子園の喫煙ルームで2人きりになった時だった。怒られることは覚悟で、意を決して質問を投げかけた。 「ホンマに失礼な質問してすいません。タバコ1本、1本に名前書いてたエピソードって本当なんですか?」 「ああ、それはね。1本、1本いうことはないけどね。箱には書いたことはあるかなあ。セロハンいうの。あのビニールの上からじゃなしに、箱には書いてたかな。しかし、あんた、そんな話をどこから聞いてくんねんな」 笑いをこらえ「本当にすいません。しょうもないこと聞いて」と一礼し喫煙ルームの外へ。タバコ1本、1本には書いてはいないが、箱には書いていた。しっかりウラを取った。しかし、これはスポーツ紙の悪いところ。見事に話が盛られまくっとるやないか~い。 中日・水原茂監督(左)と阪神・吉田義男(1969年) そんな吉田さんと最後に少しお話しできたのは、京都の高級ホテルのバーだ。阪神史上2人目の日本一監督となった岡田彰布さんの第1次政権時代から続いていた後援会「京都岡田会」に取材でお邪魔した時だった。ある主催者のご厚意で開会前の短い時間をいただき、会話することができた。 その時は京都大学名誉教授で18年ノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑先生と、吉田さんでコーヒーを飲まれていた。 「あんた、よく甲子園では見かけてたけど、最近は見なかったな。今はどうしてるの」 以前、勤務していた新聞社を退職し、フリーになった旨を伝えると「頑張りなはれや」と励ましていただいた。 少年時代の憧れの存在と取材の名を借り、会話できること。これはこの仕事の醍醐味。阪神を初めて日本一にしてくれたテレビの中の吉田監督は「チーム一丸」が口癖だった。脈々とつながる虎の血筋が途絶えることはない。藤川新監督も「チーム一丸」で日本一を――。それを吉田さんも願っているはずだ。 吉田監督、調子に乗ってしょうもない質問をしたことを許してください。合掌。
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