【今季最強寒波】池の水が凍る 軒下につらら 福岡と佐賀は5日午後にかけて大雪のピーク (FBS福岡放送) – Yahoo!ニュース

今シーズン最も強い寒気の流れ込みが続き、福岡県と佐賀県では5日午後にかけ、大雪のピークとなる見込みです。 福岡・添田町 午前7時ごろ、福岡県添田町の公園では池の水が凍り、あずま屋の軒下にはつららができていました。 今シーズン最も強い寒気が流れ込んでいる影響で、5日午前、佐賀市で4センチ、飯塚市で3センチの積雪を観測しました。 福岡県と佐賀県では、このあと午後にかけて大雪のピークとなる見込みです。 6日午前6時までの24時間に予想される雪の量は、いずれも多いところで、山地で20センチ、平地で10センチとなっています。 5日朝の最低気温は、佐賀市川副で氷点下3.9℃、八女市黒木で氷点下3.8℃、福岡市博多区で氷点下0.5℃など、福岡・佐賀のほとんどの観測地点で氷点下の冷え込みとなりました。 気象台は不要不急の外出を控えるよう呼びかけています。 佐賀市 この寒波で交通に影響が出ています。 ■児玉悠一朗記者 「北九州市都市高速道路の入り口付近には柵が取り付けられ、通行ができなくなっています。」 北九州都市高速は全線で通行止めが続いています。 九州道の小倉東と古賀の間や、東九州道と長崎道の一部区間も通行止めです。 また、福岡と九州各地を結ぶ高速バスは、一部で運転見合わせとなっているほか、終日運休が決まった路線もあります。 ■佐世保に帰省する大学生 「帰ろうという時に運休になってしまったので、とにかく待っています。」 交通各社では、ホームページなどで最新の情報を確認するよう呼びかけています。

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大御所芸能人のそっくり娘が「まさか」親子共演を報告!「ステキです」「すごく楽しみ」女優活動中(スポーツ報知)|dメニューニュース

堺小春のインスタグラム(@koharu_sakai)より タレントの堺正章と岡田美里・元夫妻の次女で、女優の堺小春が5日に自身のインスタグラムを更新。父とのテレビ出演を報告した。 小春は「お知らせ 明後日2月7日、なんと、、『徹子の部屋』に父と共に出演致します」とテレビ朝日系人気番組にゲストで登場することを伝え、「まさかこんなに歴史ある番組の50周年という記念すべき瞬間に自分が出演出来るなんて、、、ありがたい限りです。。」と感謝。 「父とは初めてのトーク番組出演でした。私はまた緊張してますが、どうかどうか温かい目でご覧いただけたらと思います 宜しくお願い致します」「#徹子の部屋」と呼びかけた。この投稿には個室前でのオフショットや、よく似た親子の2ショットを掲載。フォロワーから「素敵です」「すごく楽しみです」との声が上がっていた。 現在30歳の小春は正章と岡田美里・元夫妻の次女。最近ではNHK連続テレビ小説「虎に翼」(月〜土曜・午前8時)に出演して注目を集めた。プライベートでは21年9月に一般男性との結婚を発表し、24年9月に挙式したことを報告。父にエスコートされる姿が「ご家族幸せそうです」「愛があふれてる」と反響を呼んだ。

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パナソニック、テレビ事業など“抜本的改革”へ。売却も含めた様々な可能性を検討(PHILE WEB) – Yahoo!ニュース

パナソニックが経営改革の説明会を開催 パナソニックは、経営改革についての説明会を開催。テレビ事業などを課題事業と位置づけ、抜本的な改革を行って経営改善を図るとした。 会見で公開された資料 同社では、「テレビ事業」「産業デバイス事業」「メカトロニクス事業」「キッチンアプライアンス事業」の4事業をグループの中での課題事業と位置づけ、楠見雄規CEOが「事業あるいは商品・地域からの撤退、ベストオーナーへの事業譲渡を含む抜本的な改革を通じて、2026年度末までには課題事業を一掃する」と説明。 ただし、「売却という手段をとるかどうかは現時点では決定しているものではない」ともコメント。収益改善に向けて様々な方法を検討していくことの一例であるとした。また、「(仮に売却を決断をしたとしても)現時点では事業として売却を受けていただける企業はないと考えている」とも述べた。 楠見氏はまた、「私自身、テレビ事業を担当してきたということでセンチメンタルな部分も無きにしもあらずだが、高収益な事業の塊にしていくためにはやり方を大きく見直していかないといけない」と説明。 「今まで進めてきたテレビの改革においても外部に頼ることで自らの固定費を下げるというのはやってきていること。そういったところをもっと徹底して進めるのがテレビの改革になってくると考えている」と語った。 なお、テレビ以外の家電事業も「再建事業・事業立地見極め事業」に位置づけ。グループに分散する家電事業を集約・事業会社化してリソースを適正化することなどで再建を図っていくとした。 また、物流やエネルギーなどのソリューション事業を注力分野に位置づけ、同領域のシナジー創出のために、現在のパナソニック株式会社を発展的に解消すると発表。家電販売などBtoC事業を「スマートライフ社」に集約するほか、BtoB領域では「空質空調・直品流通社」「エレクトリックワークス社」(※社名はいずれも仮のもの)などに事業会社化し、自主責任経営を加速するという。 楠見氏は、家電事業について「誤解しないでほしいが、家電事業は我々にとって非常に大事な事業」だとコメント。「そのためにも高収益にしないといけないし、大鉈を振るう部分は大鉈を振るう必要があるということだ」と語った。 編集部:小野佳希 PHILE WEB ******* **************************************************************************** ******* ****************************************************************************

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溝口勇児氏が告発、暴露系インフルエンサーが「悪質な犯罪行為」を動画で公開され活動終了宣言(日刊スポーツ)|dメニューニュース

起業家で格闘技イベントBreakingDown(ブレイキングダウン)のCOOとして知られる溝口勇児氏(40)が5日までにX(旧ツイッター)を更新。暴露系インフルエンサーのエンターテイナー折原氏が溝口氏の手がける組織に対し、個人情報流出工作を行っていたことを告発した。 「エンターテイナー折原氏に関する悪質な犯罪行為を、証拠とともに全て公開します」と書き出した上で、経緯を説明する約22分の動画をアップ。折原氏が自身に関係のある人物を溝口氏の組織に入社させた上で、個人情報を流出させるように工作していたことを内通者による撮影動画などで告発。「この動画では、今回僕らが被害を受けた悪質な犯罪行為について、内通者を通じて僕と折原本人が直接対面し、全ての証拠を元に問い詰めている映像が差し込まれています」とつづった。 そして「ただ、結論本人たちから深い謝罪があったことと過去に当該アカウントで投稿していた誹謗中傷の投稿は全て削除すること、今後も一切その類の投稿をしないことを約束したので、エンターテイナー折原氏を刑事罰に問うことはしません」とした上で「今後も僕たちは、事実関係なく信者を扇動し印象操作をして人の人生を平気で潰すような輩や自分や仲間たちを心ない言動で嘲笑して傷つける人達に絶対に屈しません」と宣言。 さらに「この件だけでなく、これからも僕たちは守りたいものを守れるように、助けたい人を助けられるように、変えたい不条理を変えられるように、理不尽には徹底的に抗います」と続け「今まで彼に人生を潰されてきた人が少しでも報われますように」と締めくくった。 エンターテイナー折原氏は溝口氏の動画公開を受け「今回、溝口さんとブレイキングダウン関係者の皆様に多大なるご迷惑をおかけしたこと、大変申し訳ありませんでした。また、我々の活動、発信によってご迷惑をおかけした皆様と心に傷を負ってしまった皆様に深くお詫びいたします」と投稿。「本日を持ってエンターテイナー折原は活動終了します」とした。

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【追悼】阪神・吉田義男元監督があるベテラン記者を指さし言い放った言葉が忘れられない「あんた、いま笑いなはったな…忘れまへんで」(中日スポーツ)|dメニューニュース

◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」 まさに突然の訃報だった。「よっさん」こと阪神・吉田義男元監督が2月3日、午前5時16分、脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。ことし阪神は球団創立「90周年」を迎えた。愛弟子・岡田彰布監督から藤川球児監督への《禅譲》を誰よりも喜び、応援していたのが吉田氏だっただけに、「日本一奪回」を見ずに逝くのはきっと心残りがあったことだろう。ご冥福をお祈ります。 筆者にとっても1985年、虎番記者として初めて「リーグ優勝」「日本一」を味合わせてくれた監督だった。思い出は幾つもある。まずは84年11月10日の出来事からご紹介しよう。 その日は「右翼」か「二塁」で揺れ動いていた岡田選手のポジション問題に、ようやく終止符が打たれる日だった。場所は大阪・梅田にあったホテル阪神、吉田監督とコーチ陣、トレーナーとの話し合いが午後5時から続いていた。午後9時、一枝修平コーチと一緒に吉田監督が出てきた。 「みんなでいろいろ協議した結果、来季、岡田を二塁で、真弓を外野でやってもらうことにしました」 予想通りの結果。だが、先輩記者たちの表情には「なぜ?」という疑問符が浮かんでいた。吉田監督はそれを見逃さなかった。 「みなさんの顔を見てたら、なんでや―と思てはる人が多そうでんな。みなさん、二塁手・岡田に対する評価が少し低すぎるのとちゃいますか。たしかに、まだ横への動きは狭いかもしれまへん。猛練習が必要でしょう。けど、岡田はどんなに走者に差し込まれようとも、併殺の際に逃げることなく一塁へ送球する。一、二塁間の打球の処理も抜群にうまい。私が見る限り、岡田は《日本一の二塁手》になる素質が十分あると思います」 そのときだ。ベテラン記者の一人が吉田監督の発した「日本一」の一言に思わず「プッ」と噴き出した。そのとたん、吉田監督の表情が変わった。その記者を指差し―。 「あんた、いま笑いなはったな。私が日本一の―と言うたときに笑いなはったやろ。わたし、その笑いを1年間、忘れまへんで」と言い放ったのである。凄い監督や。こんなことを胸を張っていえる吉田監督に、当時29歳の筆者はしびれた。 ちなみに、そのシーズンが終わり、監督と記者との懇親会が行われたとき、吉田監督は笑った記者の肩をポンポンと叩いて「私、あんさんが笑ろたん、覚えてまっせ」と笑顔でつぶやいた。その執念深さにも驚かされたのである。 1985年、筆者は「吉田義男」という人間の魅力にどんどんと引き込まれていった。8月12日、日航機墜落事故に中埜肇球団社長が遭遇した。巨人戦のため東京へ来ていた阪神ナインは信じられない事故に動揺した。 13日午後3時、ナインたちは異様なムードの後楽園球場に入った。いつもなら陽気に話しかけてくる巨人の選手たちも遠巻きに見ている。スタンドからの歓声もなく。妙などよめきが選手たちを包んだ。ウォームアップが始まっても選手たちは無言。そんな選手たちを容赦なく報道のテレビカメラが追った。少しでも近くで選手の表情を撮ろうと…。そのときだ。そのテレビカメラの前に両手を広げて吉田監督が立ちはだかった。 「すみません。球場へ一歩踏み込んだからには、ここが私らの仕事場です。どうか、静かに野球をやらせてもらえまへんか」 吉田監督は静かに頭を下げた。怒りはない。それは《平常心》を取り戻そう―という選手たちへの、自分自身への《静かな檄》だったのである。 そう、こんなこともあった。吉田監督は1975年に初めて「監督」に就任したときから「ケチ」と陰口をたたかれていた。そのケチのエピソードのひとつが、たばこの1本、1本にボールペンで「〇に吉」と書いていた―という「マルヨシ事件」。先輩からこの話をよく聞かされていた筆者はある日、思い切って吉田監督に尋ねた。 「監督はホンマに1本1本に名前を書きはったんですか?」 吉田監督は怒らなかった。 「そういうふうに言われてますな。けど、そんなことしまっかいな。私がケチやからそんな作り話で笑ろてるんです」 吉田監督によれば真実はこうだ。吉田監督はベンチでよくタバコを吸った。1975年前後は選手もベンチでプカプカ。ベンチの端にはずらりとたばこの箱が並んでいたという。吉田監督がさぁ、吸おうと思うと自分のたばこがない。誰かが間違って持っていたのだ。そんなことが何回も続き、ついに吉田監督は間違われないように―と自分のたばこの箱にマジックで「〇に吉」と書いた。 この話が「ケチ」の尾ひれがついて「1本1本に」となったのである。「ほんまに、しようもない話ですわ」と吉田監督は懐かしそうに笑った。 「わたしには兄弟や親せきがぎょうさんおりましてね。子供のころから早よ取って食べな、食べもんにありつけんかったんです。その癖が抜けまへんねん。せやから私は食べ物には《いじましい》んですわ」 吉田監督は若い記者にでも正直に話してくれた。そんな「よっさん」が大好きだった。小学生のころ、初めて親父に買ってもらったユニホーム(当然、縦じま)。背番号は「23」だった。その頃の写真を監督に見せると「ふーん」といっただだけでガッカリ。それも忘れられない思い出のひとつ。たくさんの思い出をありがとうございます。今年のタイガースの戦いぶりを天国からご覧ください。(合掌) ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。

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エンターテイナー折原氏が暴露系を電撃引退、溝口勇児氏が明かした顛末(1/2ページ)

溝口勇児氏 「エンターテイナー折原」を名乗る暴露系のX(旧ツイッター)のアカウントが4日、活動終了を発表した。 折原氏は、「溝口さんとブレイキングダウン関係者の皆様に多大なるご迷惑をおかけしたこと、大変申し訳ありませんでした」「我々の活動、発信によってご迷惑をおかけした皆様と心に傷を負ってしまった皆様に深くお詫びいたします」と謝罪した。 折原氏の活動終了のきっかけは、暴露していた格闘技イベント運営会社「BreakingDown」のCOO(最高執行責任者)、溝口勇児氏(40)から反撃されたことだとみられる。 溝口氏は同日に自身のXを更新し、20分ほどの動画と共に、折原氏から受けた暴露行為の顛末を告白。 動画の中では、「ブレイキングダウンと私がまるで反社と関わりがあるようなことを書かれて、大変な迷惑を被った」とし、折原氏と直接対面して「証拠を元に問い詰めている」様子が公開された。 溝口氏はX投稿の中で、「結論本人たちから深い謝罪があったことと過去に当該アカウントで投稿していた誹謗中傷の投稿は全て削除すること、今後も一切その類の投稿をしないことを約束したので、エンターテイナー折原氏を刑事罰に問うことはしません」と説明。 「今後も僕たちは、事実関係なく信者を扇動し印象操作をして人の人生を平気で潰すような輩や自分や仲間たちを心ない言動で嘲笑して傷つける人達に絶対に屈しません」とつづった。

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【長崎・雪情報】最強寒波 5日が降雪のピーク 朝6時~正午、午後6時~9時警戒 雪雨シミュレーション

長崎地方気象台によりますと、長崎県は6日(木)にかけて今季一番の強い寒気の流れ込みが予想され、大雪となる可能性があります。5日午前6時からの24時間降雪量は、多い所で山地で20センチ、平地で10センチが予想されています。5日が降雪のピークと予想されています。その中でも、特に5日朝から昼前(午前6時頃~正午頃)、夜のはじめ頃(18時頃~21時頃)の2回のピークが見込まれています。交通障害などに十分注意してください。 降雪量の予想(多い所) 【長崎県】 5日06時から6日06時まで 山地 20センチ 平地 10センチ 6日06時から7日06時まで 山地 3センチ 平地 1センチ 7日06時から8日06時まで 山地 7センチ 平地 3センチ 雪と雨の予想 5日(水)~9日(日)までの雪と雨のシミュレーションです。7日(金)~8日(土)も大雪のおそれがあり、平地でも積雪の可能性があります。「画像」から確認できます。 6日(木)の雪と雨予想 Page 2 全国のトップニュース 38分前 1時間前 1時間前 1時間前 1時間前 1時間前 5時間前 7時間前…

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吉田義男さん「阪神一番の貢献者」…王さん、長嶋さん、日本一ナインら悼む

日本シリーズ第6戦に勝利して球団初の日本一を決め、選手らに胴上げされる吉田義男監督(1985年11月2日) プロ野球・阪神タイガースの名遊撃手で、監督も務めた吉田義男さんが3日、91歳で亡くなった。チームを初の日本一に導き、阪神フィーバーを巻き起こした名将だった。 1985年、関西は阪神の躍進に沸いた。当時の日本一メンバーも 訃報(ふほう) にショックを受けた様子。掛布雅之・球団OB会長は「ぽっかりと大きな穴が開いた感じ。85年に『うちには日本一の4番バッターがいる』と言ってもらえたのは最高の名誉でうれしい言葉でした。本当にありがとうございました」と感謝した。 一昨年、監督として38年ぶりに日本一をもたらした岡田彰布・オーナー付顧問は「一番の思い出は、やはり85年の日本一。若くて夢中でプレーしていた私たちを引っ張っていただいた。改めて感謝の意を表するとともに、心よりご 冥福(めいふく) をお祈りいたします」と悼んだ。 吉田さんの監督就任時に二塁から外野にコンバートされた元阪神監督の真弓明信氏は、「優勝の話になると『真弓がコンバートをOKしてくれたから』とよく話してくれました。本当に残念。タイガースの一番の貢献者です」としのんだ。 現役時代にしのぎを削った読売巨人軍の長嶋茂雄終身名誉監督は「残念としか言葉がありません。小柄な遊撃手でありながら、大型選手並みのプレーをされていたのは忘れられない思い出です」と追悼の辞を寄せた。 海外にも競技を広める一翼を担った。90年代には、野球のフランス代表チームを監督として率いた。フランス語の男性の敬称「ムッシュ」と呼ばれるようになった。 福岡ソフトバンクホークスの王貞治球団会長は「フランスで一生懸命野球を広められ、ムッシュ吉田で有名でしたね。捕るが早いか、投げるが早いかと言われた華麗な守備は、誰にもまねできないほど素晴らしかった。心よりご冥福をお祈りいたします」と哀悼の意を表した。 サッカーの98年ワールドカップ・フランス大会前に吉田さんと知り合ったという日本サッカー協会の川淵三郎相談役は、「フランスサッカー連盟の幹部を紹介いただいた。今ほど力がなかった日本代表が、フランスと試合を組める足がかりとなった。渡仏した際に車で迎えに来ていただいたのは、忘れがたい思い出です」と懐かしんだ。

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【日産&ホンダ統合の行方】鍵を握る「三菱自動車」…三菱重工や三菱商事が連携して存続を図ってきたその歴史 2016年には日産の支援でグループ入り(マネーポストWEB)|dメニューニュース

昨年末から続く日産とホンダの経営統合協議。ここにきて注目されるのが、日産が筆頭株主となっている三菱自動車の動向だ。統合に加わり「3社連合」となる可能性も指摘されているが、統合会社の中に入ると、経営の自由度が奪われ、三菱グループとの連携にも支障が出るため、統合には入らないとの見方も根強い。そんな三菱自動車のこれまでの歩みについて、自動車業界に精通するジャーナリスト・井上久男氏がレポートする。【全3回の第2回。全文を読む】 “親”が変わった 歴史を振り返ると、三菱重工や三菱商事が連携しながら「弱小自動車」の存続を図ってきたことが分かる。 実は三菱が日本で初めて乗用車を量産したことはあまり知られていない。1917年、重工の前身である三菱造船が「三菱A型乗用車」の生産を開始。トヨタが同社初の乗用車「AA型」を発売する19年前のことだ。 しかし、当時、国産車は売れず、三菱造船は自動車生産を辞めて航空機に経営資源をシフトし、1928年の三菱航空機設立につながった。その航空機と造船が合併して1934年、三菱重工が誕生した。現在の三菱自動車は1970年、重工の自動車部門が独立して米クライスラーとの合弁で設立。歴代社長の大半は重工出身者で、重工が“親”だった。 転機が訪れたのは2000年、三菱自動車が独ダイムラー・クライスラーからの資本を受け入れた頃からだ。当時、交渉を巡って、「重工のドン」と言われた相川賢太郎相談役と商事の槇原稔会長が対立したと言われている。相川氏が外資との提携に反対で、槇原氏は推進した。 その後、三菱自動車は2回にわたってリコール隠しが発覚して経営破たん寸前に陥り、「御三家」が中心となって経営支援した。2005年に商事出身の益子修氏が社長に就いたことで、重工よりも商事の影響力が強まり始めた。 この益子氏が自動車の経営を再建させた。だが、2016年に再び品質不正の「燃費データ問題」が起こり、今度は日産の支援を仰いだ。当時、会長だった益子氏と日産副会長で日本人トップだった西川廣人氏が話し合い、日産から34%の資本を受け入れ、日産グループ入りが決まった。 2017年に西川氏が日産社長に就くと、益子氏との関係がさらに強まった。 * * * 現在、マネーポストWEBでは、関連記事《【全文公開】日産&ホンダ統合を左右する「三菱自動車株」問題 日産の持つ27%の三菱株の行方は…ホンダが引き受ければ新たな「3社連合」の形へ》にて、井上久男氏によるレポートの全文を公開している。 【プロフィール】 井上久男(いのうえ・ひさお)/1964年生まれ。ジャーナリスト。大手電機メーカー勤務を経て、朝日新聞社に入社。経済部記者として自動車や電機産業を担当。2004年に独立、フリージャーナリストに。主な著書に『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』などがある。 ※週刊ポスト2025年2月14・21日号

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「父のような存在でした」仲田幸司さんが涙で思い返す吉田義男監督からの手紙(スポニチアネックス)|dメニューニュース

完封でプロ初勝利をあげた仲田幸司に抱きつく阪神・吉田義男監督(1985年5月12日、神宮球場) 吉田義男さんの訃報を受け、元阪神の仲田幸司さん(60)は思い出深い手紙について涙ながらに語った。 興南高(沖縄)からドラフト3位で入団して2年目、1985(昭和60)年5月5日の中日戦(甲子園)でプロ初登板を果たした。こどもの日の先発起用について当時、吉田監督から「おまえも高校野球で頑張って来たんやから子どもたちに夢を与えるんだぞ」と送り出された。5回3失点と踏ん張ったが敗戦投手となった。 1週間後の12日、ヤクルト戦(神宮)で再び先発起用された。今度は散発3安打に抑え、完封でプロ初勝利をあげた。 その翌朝、宿泊先のホテルで吉田監督から部屋に電話があり、呼び出された。 「マイク、昨日は何の日か知ってるやろ」と言われ「はい、母の日です」と返した。 「そうや、ようやった。今の気持ちを忘れんとしっかり頑張れ。お母さん孝行の足しにしなさい」。 手紙入りの封筒と賞金10万円をいただいた。仲田さんはそっくりそのまま沖縄の母・ナラエさんに送った。母もまた、そのままタンスのひきだしにしまい、大切に保管していた。仲田さんは帰省する度にその手紙を読み返した。 手紙には「プロ入り初完封、初勝利。実に立派な価値ある、素晴らしいものだった」とあり、次のような戒めも書かれていた。「タイガースは人気球団だから、これから誘いや誘惑もあるだろうけど、軽はずみについて行くんじゃなくて自分で判断して断る勇気も持ちなさい。仮に3回誘われたら1回は断れる人間になるように自分の身体を守ることも考えるように」。 仲田さんは米国ネバダ州で、米空軍将校の父と大阪・堺市出身の母との間に生まれた。米国名はマイケル・フィリップ・ピーターソン(通称マイク)という。1967年、父の配置転換に伴い沖縄県へ移住した。 「沖縄から出て来て、右も左も分からず不安に過ごしていました。吉田監督は父のような存在でした」と感謝を込めて話した。 (内田 雅也)

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